s43年11月18日 アサ

※ご理解途中から、、

神に一心は届かん、平気でなからなければならん、学が身を食うと、そういうことの中から頂きたいと思います。
97節、神様へ向うたら、物音や物声を聞くようでは神に一心は届かんと、心を神様へ向けたら、物音や物声を聞くようでは神へ一心は届かん。
それから98節に、平気でなければならん、これは落ち着いとかなければならんということですが、平気でなければならんと、ね。やはり物音物声を聞くようでは、神に一心は届かんというのと平気でなければならんというのは、おんなじようなことを感じます。
例えば、ここではご祈念をさせて頂いておる時に、物音物声を聞くようでは、ということでもございましょうけれども、これは信心をさしてもらう、神様へ心をいよいよ向けさせてもらう、その様々な事柄があったり、様々なことを聞くことがある。いわば自分の信心の障害になるというかね、邪魔になるようなことを聞くことがある、人がいよいよ取り沙汰するようなことがある、ね。気兼ねしながらといったようなものであったり、あの人がああ言われるからといったようなことで信心が鈍るようなことでは、神へ一心は届かんと、まあ今日頂かなければならんと思うですね。

誰がどう言うから信心ができないと、誰がなんと言おうがどういうことが起こってきようが、向けた心が変わらない、神様へ向けた心が変わらない、それが一心だとこう思うです、ね。どんな場合でも迷いを生ずることのない、それをそこに一心が立つといわれるね、ですから誰がなんと言うても、どういうことがあっても、この98節に平気という言葉が使っておられますが、平気でなからなければならない。でなからなければならんのですけれども、私どもがね、どういうところから平気でなくなるのか、一心が立たんのかと、ね。ここに信心の要諦、神様へ心を向ける一つの心がけというものを教えておられるわけですね。物音や物声を聞くようでは、神へ一心は届かんと、ね。とりわけ神様へ向ける心というのは平気でなかなければならん。いわゆる平生心である。なかなか、ところが実はそれは難しいんですよね、その平生心じゃない。または、なかなか神に一心が立たない。どうしても、人がああ言い、こう言いすることが、信心の邪魔になる。それでもそのお繰り合わせを頂きね、それでもやはり神様へ一生懸命向かっておる、なかなかここは難しい、なかなかできない、けれどもそこんところを神様へ向けておると、神様がね、そのことを援護してくださるというか、それを援助してくださるというかね、神様がいよいよおかげを頂かせようとする、こう、なんていうかね、そのおかげを差し向けてくださる、おかげのほうを差し向けてくださって、私どもの信心の心を本当の方へ、こう、誘導してくださっておるような、お繰り合わせを頂ける。大抵の者がそこんことこ、私どもでもその程度のところしか頂いてない。これほど間違いのない神様であるから一心を立てなければならない、迷うちゃならない、後ろ振り向くようなことがあっちゃならない、ということになる。だからそれを考える、それを頂くから、いわば平気に、ようやくなれるというのが、いわば私どもの信心の現状じゃなかろうかと、こう思うんですね。

それがどういうところに原因しておるかというとですね、いわゆる99節にあります、無学で人が助からんということはないとおっしゃるが、そのなまじっか学があると、学が身を食うというておっしゃっておられる、今日そこんところね、なまじっかなものがですね、なまじっかなものが、いわば身を食うのですよ、なまじっかなものが、私を、心を、いらんことに心を使わせたり、平生、平気でなくなってくるのです。だからこれが、ほんとに図太い人とでもいおうか、まあほんというなら底の抜けた馬鹿のような人とでもいおうか、そんなら一つも気にも障らないと思うようなことが、なまじっか自分の心の中にある、まあ、知識というかね、学というか、それが邪魔をしておるのですよ。

ですから結局信心は、どのように学があっても、どのように知識があっても、なにがどのようにでけても、ね、私どもがですね、学があって学がない状態になることをつとめなければならないということが分かります。
学問なさるなら、学問を、最高の学問を身に付けてもです、全然学問がないような状態にならなければならない。
まあよく形に現れてまいりますとね、なにか信心がでけてまいりますと、なにか信心がやはりきざっぽくなってきますね、もう一目であっちは信心しちゃるじゃろうという、信心があるということが分かるようになってくる。それが段々段々信心が進んでまいりますと、信心があるやらないやら分からんようにこうなってくる。

まあ例えて申しますなら、よく歌舞伎役者かなんかに感じるんですね、まあスターだ花形だといわれるぐらいになってまいりますと、いつ誰がどこで見ても、はあ、あの人は役者さんだなあ、ということが分かる、ような例えば風が出てくるですね、もう身のこなしといい、例えば着物なら着物の好みといい、はあ、あの人は芸人だな、役者さんだなと分かる。ところがそれがですね、段々老公というか、そのなんといかね、その人の演技力といったようなものが、もういよいよ神技といわれる名人といわれるようになってくるとですね、芸人らしくなくなってくるんです。どこの田舎のおじさんじゃろうかといったような、その風になってくる。それで履物ひとつでもですね、そのまあいわば、スター花形といわれる時分の時には、鼻緒の詰まった履物はきますね、ちょっとつっかけたような下駄、あの雪駄なら雪駄を履いてますよね、もう踵が後ろにこう出とる、もうこうそったようなのをきざっぽく履いてるんですね。それだけでも素人じゃないというのがわかるんです。ところが、段々芸がですね、もうその、老熟してくるというか、もうとにかく名人といわれるようになるとですね、もうゆったり、鼻緒のね、ゆるういですね、ゆったりした履物履くようになるです。

ですから、もう大変今日のところは、もういうならば、大変難しいことですけども、結局けれども私どもができんけれども、しかしそこを目指さなければならないということですね。学があっても、あるやらないやら分からんようにならなきゃいけんというのですから、やっぱり難しい。なぜかというと、その学があるとですね、その学が身を食うんです。ただほんとにあの、なんと申しますかね、小さい神経がやはり神様へも、そのビリビリ響いていくことを私は感ずることがあるんですけどもね。

あの、なかしまの高滝さんが初めて椛目にご縁を頂いた時分ですね、「〇〇もありましょうが?」、もう髪がこう伸び放題、もうここから膿が、横腹からずうっと膿が出ておりました、もう粟粒結核でした。もう大変な、とにかく、もう状態で、椛目に参りました。それを椛目で預かることになりました。もう家内でも子供でも、お父さんの入っとる部屋に入りきらん、もう入っちゃならんごとなっとる、閉め切ってしまってあって。もう、あの茶碗一つでも熱湯に、お茶が飲んだらその茶碗を熱湯を通さなければ、こちらには持ってこないというふうに、まあ、してあった。それでもこちらは、まあ平気ですからね、神様のおかげで、それから一月間私の横に休ませることになった。もう匂いがするだけではなくて、もう「骸骨の横に?」一緒に横に寝てるようなもんですからね、それでもなんともなかったんですよ。ところがですね、3日目だったでしょうか、4日目だったでしょうか、あの今、南久留米の教会の総代をしておられます、神具屋さんがありますよね。ご神具をある月次祭に売りに来なさったです。それから、色々なんか話をしよりましたらですね、自分の親戚の人が粟粒結核で亡くなったということの話をされる。粟粒結核というその結核はもうとにかく怖い、怖い病気ですな、他の結核ならまだいいけども、この粟粒結核だけはもうその怖いんだ、と。もうどんなに医者でも、もうみんなその病人に接したら、もういっぺんいっぺんにエプロンを替えるというんです、この病気の方は。というほどに、いわば前震恐る、その移る病気、移るというわけなんですね、そうでしょう、血の中に結核菌が、もうあるという結核ですからね。そしたら怖くなってきたんですよね、私が。もうあのこうやって二人並んで休んどるでしょう、それに高滝のことのほうば向かにゃあならん、もうあの息が臭いですからね、それをこう、見るのがもうとにかく怖いんです。一生懸命、生神金光大神様、生神金光大神様、ね。いわゆる知らなかった昔に還ろうと一生懸命つとめた。

それからですね、ある、それから、まあ私はっきりは覚えませんけども、まもなくでしたが、私がお国替えの状態を頂いたです、お夢の中で。もうそれはそれは、もうずっと深い深いところへ入っていく、もうそれが実に、もうエレベーターですうっと降りるようなものじゃないんです。もうそれが有り難い有り難い、その状態。どういうことだろうかと思ったんです。それがもう一晩中続くような感じだったけども、まあ時間にしては僅かだったでしょうね、目が覚めましてから、そのことをどうしてこうじゃったろうか思うてお伺いさせて頂いたら、あれがお国替えをしていくときの状態じゃと頂きました。人間は安らかに眠るようにというのは、やっぱりそういうことですね、ずうっと底にこう、引き込まれていくようなかんじ、それでも有り難い有り難いというかんじであった。

その時に私の心の中にですね、もう死ぬまいと思うから、こんなに怖いんだと思うたです。その粟粒結核が移ったらどうしようかと思うから怖いんだ、と。移ったっちゃ良か、死んだっちゃ良か、しかもこのように有り難いのなら、死んだっちゃ良かという気になったです。それからひとっつも怖くなくなったです。
それはもうあの時分に、みな通うてきらっしゃる者はたまがりましたけども、もうちょうど一月間でした。もうほんとにね、目を見張るようにおかげを受けていきました。これなんかは、いわばその、なまじっかなことをいわゆる知ったためにですね、怖くなったわけです、ね。だからその知らぬ昔という時には、もうそれこそ、なんと申しましょうかね、例えばなら、ご神水なんかでもそうでしょう、ね、少しばかり例えば、衛星的なことが、学問の上でも分かっておると、とてもあの椛目時代のあのお手洗いの水なんかは、よう飲みもできなかったろう、または、よう洗いもできなかったでしょうね。けれどもそれを知らない、それをまた、それをこれでもおかげを頂けると信じている人、またはそういうことの知識のない人は平気で身に頂いて、そしておかげを受けたですね、あの時分。ですから、私どもは、その知識を身に付けていかんわけにはいかんから、知識を付けていっても、その知識が無知識になる、というところまで、信心を進めていかないといけないことが分かります。

学があっても無学の状態になるというところに、信心の精進がある、いうなら無学の状態になってしまわなければおかげが受けられんかといのではなくてですね、今申しますように、神様がね、それを信じさせてくださるような働きがあるということ、事実です、ね。例えていうと、私が高滝さんは平気で休みよったけれども、二、三日目にそういうこと聞いたら、途端に怖くなった。怖くなったら、一心におすがりさせて頂きよったら、お夢の中ででもそういうこと教えてくださる。それで、私の心の中に一つの開けた心というのが、自分が結核になっちゃあならんと思うから、ね、自分が死ぬまいと思う心が怖いのだ、ね。それはもうあの時分の私どもの子供たちはみんな、ほんとに肺病患者の方たちが多かったですもんね、ちょうど時を同じくして、高滝さんが私のところに入って休んでおるなら、私のこっち側の方には、畳をあそこへ畳三畳の所に三つ床をひいて休みました。ですからそのすぐ横には荒木さん、これも骸骨のようにしとった、やっぱ結核患者でした。こちら「いっちょやら?」高滝さんが休んどる、こちら「いっちょやら」荒木さんが休んどる、その結核患者の中に私が休んどるっちいう、どちらにしたところで。けどもそれを頂いてからっていうものはもうその怖さっていうものがなくなる。ですから、いわゆるいうならば、ままよという心でしょうかね。いうなら子供たちはみんなその人達が守りしてくれたんですからね。おかげで子供たちに結核患者にならずにおかげ頂いた。それはいわゆる、ままよという心。とてもあれをもう恐々どもしとったらできるこっちゃなかったとは、もちろん今にして思いますけれどもですね、学があっても学のない状態にならせて頂くことを精進させてもらう。このことは大変にむつかしいことなんだけれども、むつかしいことなんだけれども、そこに精進させてもらう、初めから学があると
割り切ってしまう、それはいけない、そげなことしよったら危ない、ということになりますけれども、そこんところを学のない状態になる、私は精進をさせてもらうということを今日は皆さんに聞いて頂いておるですね。
そしてそこにですね、学のない状態とおんなじような働きができれる、神様が水を差し向けてくださるようなおかげを受けられるのです。

私は今朝方、初めて、まあこれは御神夢じゃなくて雑夢だろうかと初めの間は思うたです。夢の中でそげん思いよった。もう一生懸命逃げておるお夢なんです。善導寺なんです。どうも原さんやら久保山さん、あのあたり、それけんちいうて、原さんも出てこなければ、久保山さんも出てこない。あたしの夢の中に出てくるのはね、古田薬局ていう善導寺のご信者さんなんです。どうも向かいは「まださん?」ていうお家があるんですけれども、そこからその逃げようとしておるような感じ。ここにおったらもう目が潰れる、どうかして逃げたいと。怖いんですね。そしてそこから、いよいよあるちょっとした隙に逃げ出したんです。ところがその善導寺の町筋でも行きよっと、すぐ追いかけられるという感じがするから、その古田さんとこに飛び込んでおるようです。ちょうど筋向かいが古田薬局です。そしたらあちらの奥さんが、知っとるふうですから、そのあたしが苦しんでおることも知ってあるわけです。ですからもう、隠すようにして、もう裏から真っ直ぐ、ちょうど原さんとこ、とこにも出られませんですけど、どうか知らんけど、とにかく裏の畑さ出られるごとなっとる、家がずうっと。ただ「?」。ところが外はもう土砂降りなんですね。それを雨具もないのに、あたしが出て行こうとするもんじゃけん、それじゃああなた風邪ひきなさるといけんからて言うて、「もう逃げながらでん、、?」ここば逃げだされるとならばというて裏に行って畑に出た途端にお天気が良くなったです。ときに神様のおかげを頂いたなあと思うんです。それがその、帰り着く所が椛目ではないらしいんです。昔あの椛目に、あら草野に草野線ちいうのがありましたよ、今のちょうどいうならば、あの、佐田さんが乗ってみえるような、あのくらいなまあ機関車なんです。いわゆるポンポン汽車ち言いよった、ポンポン、ポンポンいうちから、その椛目から草野まで帰りよった汽車が、それがですね、あたくしを椛目まで迎えに来てくれた。それがこげな早い時間に、その草野線があるはずないのだけども、今日はもう特別で、あの下りてきとるけんで、さあはよこれ乗りなさい、でそれがどうも発心公園に上るという感じです。ね、もう私の船とばかりにそれに飛び乗って、発心に向かって進んでおるようなお夢でした。

それで私今日、皆さんにご理解聞いて頂こうと思ったら、ただ今申しますように、物音を聞くようで神に一心は届かんという所と平気でなからなければならないという、97節、98節を頂くんです、そこんところだけを。どういうことに繋がっとるだろうかと思わせてもろうたら、そういうふうに無学、この学が身を食うというところを頂く。ね、そしてこの私どもがどんなに学があっても、学があっても、無学の状態にならなければならないということ。どんなに何がでけてもです、できないあたくしであるという状態になる、あたくしではできないという状態にならなければいけないということである。ね、それにはね、そこを逃げ出られない、そこを出られない、そこを出られないけれども、そこを本気で飛び出る気にならせて頂くとですね、次には、そこのまあ、古田薬局でも古田薬局という知人のお家があって、そこからですね、逃げられるというその、そこから脱却できるという道が開けてきて、しかも、天地は私のために働いてくださるように、今まで土砂降りだった雨がお天気になっておるというようなおかげがね、ある。次にはあたくしをもう途中まで迎えにきておるというようにです、その草野線が迎えに来ておる。そして発心に向かっておる。発心ということは、信心に関係のあること、発心すると申しますからね。何を発心するかといいますと、いよいよ無学の状態に、いわゆる、学が身を食う、信心が、おかげが身を食うと。自分のできる中途半端なものが信心の芯を食うてしまう。そしてそこに周りが怒ったり、平気でなくなしたり、一心が出らない、一心が立たない、平生でおれないということになる。ね、だから、そういう素晴らしい、いわば学があって、無学の状態になるといったような大変な難しいことなんだけれども、やはりそこを目指さなければならない。しかし、目指せばね、そこに発心すればです、できんなりに神様がですね、そこんところへ導いてくださるように、お天気が良くなったり、または、途中まで車で迎えに来てくださったりするようなおかげを受けられるという事実をです、みなさん体験しなさらなきゃいけません、ね。

学のあるものが学のない状態にできるもんかと、自分が例えば思い込んだ、そのいうなら衛生、病気なら病気のことでもです、ね、今の医学ではとにかく粟粒結核というものは怖いもんだ、医者でも怖がる病気なんだということを、例えば知りますともうそれが怖くなる。そら二、三日間というのは、本当に怖い二、三日間であった。けどもこの神様は、夢の中にでも、私のお国替えの状態を頂いて、お国替えというのはこんなにも有り難いもんだということが分かったら、はあ、私が死ぬまい死ぬまいと思うから、自分が病気になるまいと思うから怖いんだと、ね、死んだ気になりゃ、ということになったら、今まで怖かったものが怖くなくなってきたように、神様がそういうふうに心の変転というかね、心が変わっていくということ、そういう有り難いほうへ変わっていけるような状態にお繰り合わせを下さるということ。

どうぞ皆さん、そういう意味でですね、学が身を食う、いわば僅かばかりの知識が身を食うことになりますから、ね、それをそこまでで割り切ってしまわずにです、ほんとに無限の神様の働きに接しさせて頂けるためにはです、そこんところを私どもが発心してですね、いわゆる無学の状態、無知識の状態にならして頂くことの稽古をしなければいけません。そこには、そういう状態になられるような、ね、お繰り合わせ、お働きを頂けるということを、今日聞いて頂いたんですね。大変難しい、ね、これはもう簡単に物音物声を聞くようで、神に一心は届かん、ね、あたくしがその「あしみつさん?」と申しましたね、その神具屋さんの話を聞いたら、もうあたくしの心がですね、怖くなってきた。これでは、神に一心は届きませんよ、ね。もちろん私の平生心を失ってしまったんです、ね。その時に神様から差し向けて頂いたお夢の中にです、おかげの中で、はあ、そうだと一つの悟りが開けた。ね、そしてままよという心が生まれた。死ぬまいと思うからこのように怖いんだということに気付かせて頂いたところから、いわば、聞いたことも、そういう人が何と言うても、心の中に迷わんですむようにおかげを頂いたということになります。ね、そこに初めて一心が立ったことになります。そこで平気でおれる平生心が頂けたということになります。そして一つ神様が平気でできたということ。ね、それがあたくしが知識があって知識のない状態にならせて頂いた、いわゆる学があって学のない状態にならせて頂いたところからです、ね、神様のお徳を充分に、神様の働きを充分に頂く事ができたということになります。どうぞ。